プログラム

癲癇発作対比

 

1976/16ミリ/30分(アメリカ)
  
「美とは痙攣的なものだろう」−アンドレ・ブルトン
1978年CAPS賞からの助成で製作された。音響はカーネギーメロン大学コンピューターサイエンス・センターと音楽制作会社ZBSファンデーションの協力により実現し、ニューヨーク州芸術評議会と全米芸術基金による資金援助を受けて完成した。癲癇発作を起こした2人の患者の、発作中の脳波の動きを研究するための医療フィルムから映像を抜粋して使用している。もちろん患者たちは自らの意志でこのテストを受けた。発作の段階に入った患者の白黒のフッテージは、オプティカル・プリンター上で時間と色調を調整され、その映像に律動する純色のフレームが加えられている。全編を通して、観客が単なるのぞき見を超えて実際に発作を起こした状態を体感できるように作られている。そして、より深い理解と共に、そのような発作状態の恍惚的な側面までもを体感しえるよう目論まれている。
 

ポール・シャリッツ

アメリカのアヴァンギャルド「実験」映画作家でアーティスト、メディア研究の教授でもあるポール・シャリッツは1943年2月7日にコロラド州デンバーで生まれた。不幸にも1993年7月8日にニューヨーク州バファローの自宅で死亡。彼の息子クリストファーと息子の妻シェリー、3人の孫たちが残された。シャリッツは構造映画の作家として、複数の映写機の使用やフィルムの無限ループなどの技法や、実験的なサウンドトラック、上映という形態の基本様式を意識させるべくフィルムそのものに介入する手法などで知られている。デンバー大学芸術学部で美術学士号を取得。当時は若き画家として知られていたが、すでに高校時代から映画を作っていた。デンバー大で美術を学びつつ、スタン・ブラッケージに師事するようになる。2人はすぐに友人関係を築き、それは生涯にわたって続いた。ブラッケージの実験的な「スクラッチ」映画に見られる、映画の構造を操作する手法の影響はシャリッツの初期作品に明白である。1964年にはブルーミントンのインディアナ大学の修士課程に入学しヴィジュアルデザインを専攻した。修士号取得後、息子のクリストファーと妻のフランシスと共にメリーランド州ボルティモアに移住し、メリーランド・インスティチュート・カレッジ・オブ・アートで教える。その後、オハイオ州イエロースプリングスのアンティオーク大学で教え、同校メディア研究センター設立の立役者となった。1968年に離婚。そのすぐ後、ジェラルド・オグレイディの誘いでバッファロー大学のメディア研究センターに職を得た。当時の同僚には、ジェイムズ・ブルー、ホリス・フランプトン、トニー・バノン、トニー・コンラッド、後にはペーター・ヴァイベルら、実験映画の才能ある新鋭たちが数多くいた。シャリッツの作品は生前すでにかなり認知され、バイカート・ギャラリーやオルブライト=ノックス美術館、ウォーカー・アートセンターやその他の場所で展示が行われ、没後にはホイットニー美術館、MoMA、ポンピドゥー・センター、ルーブル美術館やバッファローのバーチフィールド=ペニー・アートセンターなどでも開催された。なかでも、絵画作品と共に4台のプロジェクターを使用するインスタレーション「シャッター・インターフェイス」を見せたグリーン・ナフタリ・ギャラリーでの展示は、2009年にニューヨークのグッゲンハイム美術館での「ファースト・アニュアル・アート・アワーズ」で年間最優秀個展賞を贈られた。プロジェクター4台を使うインスタレーション「シャッター・インターフェイス」はその後、ワシントンD.C.にあるスミソニアン協会ハーシュホーン美術館に購入され、展示されている。初めは絵画を学び、また理論家として多くの著述を残したシャリッツの作家活動は実に幅広い領域にわたる。初期にはニューヨークでフルクサスの面々と関わりがあったこともそれを証明している。図表から抽象映画のスコア、ファッション・イラスト、そして幻覚的な描画作品まで、彼が紙の上に残した数多くの作品についてはまだ今後、すでに広く知られている他の作品群のなかにしっかりと組み込まれていく必要があるだろう。

クリストファー・シャリッツ, 2010

 

上映日

東京 パークタワーホール:5/2 16:15 Tプログラム、5/6 13:45 Tプログラム
名古屋:6/28 13:10 Tプログラム

 
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