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ノー・プレジデント

ノー・プレジデント
 

1967-70 / 16ミリ / b&w / 50分(アメリカ)
  
スミスの長編映画第3作目である本作は、もともとは1968年の大統領選を受けて『The Kidnapping of Wendell Willkie by the Love Bandit』と題されていた。ウィルキーは共和党のリベラル派として、1940年代にはフランクリン・ルーズベルトの対立候補となった人物だ。この作品では、スミスによる人物のモノクロのフッテージを、ウィルキーのキャンペーンの際の古いフッテージとミックスしている。この作品の最大の山場は、党大会で大統領候補者を“競りにかける”ところだろう。
 

ジャック・スミス

オハイオ州で生まれたスミスは1953年にニューヨークにたどり着き、戦後ニューヨークのダウンタウンに落ちている屑をエキゾチックなグラマー美女や両性具有的ファンタジーに溢れたタブロー・ヴィヴァン(活人画)に仕立てていた。1957年にハイパバリー写真スタジオを開き、一般客やモデルを相手にロココ調とハリウッド調を足して2で割ったような写真を撮影しはじめる。乏しい予算でスタジオを運営しながら、何もかもがあまりに出来過ぎな仲間の跳躍をも越える熱狂的想像力を育て、アメリカ映画を大きく変えることとなる。「燃え上がる生物」を観たジョナス・メカスは、「想像力、映像、詩、映画芸術の最も豪華なほとばしり」と称した。
映画、パフォーマンス、アートといったニューヨーク・ダウンタウンの文化史における重要人物であるスミスは、1950年代後半に創作活動をはじめ、1960年代、70年代、そして80年代までを通じて最も成功し影響力を持つアーティストとなった。表現手段によって手法を変えるパフォーマンスのようなスミスの生き方は、都市風景を開拓・冒険することでキラキラ光るガラクタを生き生きとした驚くほど美しい世界像へと発展させたが、今度はそのニューヨーク・ダウンタウンを写真や映画に進出する舞台にした。
従来の映画上映の形態での発表をフィルム作品の完成形としていた1961年から1969年の約8年間の後、スミスは「ライブ・フィルム」と自身で命名した、フィルムとスライドをライブ・パフォーマンスに融合させるようになっていく。パフォーマンスの真っ最中に“舞台”上でフィルムの映像を編集するという生の行為と同調してフィルムとスライドが映し出す像が自動的に最配列され相互作用を生み出すという、衝撃的な舞台効果を生み出した。しかし、この自動編集は特別な方法でつながなくてはならなかったので、カメラの映像とプリントされた素材をマスキングテープ貼って撚り合せた糸のようにしなくてはならなかったが、それぞれのパフォーマンスに固有のバージョンを制作することで対処していた。アンダーグラウンド映画シーンの同世代のアーティストとは異なり、美の模範としてのハリウッドに関心を持っていたスミスは、B級女優、マリア・モンテスのテクニカラーにおける偉業を讃えた文章を残している。アートシーンの中で服従しないスミスの美学は、政治的な進歩主義の表れでもあり、制作と人生の両方で成立させようとしていた一般的な社会主義的思想の理論を系統立てて話した。祝賀的カオスと言える程にコミューン的である様や無意識の身振りというものは、多くの場合、映画製作の技術的な崩壊に起因していたが、アメリカン・シネマにおける最も視覚的に目立つ映画的なエピソードをつくるために“ガラクタとしての芸術”という理論に重ねられた。
彼が影響を与えた人々の多さと比較すると、生きている間のジャック・スミスは人々に知られていなかった。スミスのさまざまなメディアでの影響は、幅広いジャンルのアメリカ現代美術の作品においてはっきりとみられる。映画では、アンディ・ウォーホル、ケネス・アンガー、デレク・ジャーマン、クッチャー兄弟といった同時代の作品にはっきりと影響がみてとれ、またガイ・マディン、ライアン・トラカートゥン、ジョン・ウォーターズといった現代の作家にまでも影響を与えている。スミスは、さまざまなヴィジュアル・アーティストとコラボレーションしていたが、中でもクラウス・オールデンバーグや、スミスの映画セットの小道具を作っていたキャロリー・シュニーマンらとたびたび制作していた。コラボレーションをすることで、彼らは自身の作品における新たな美の軌道というものにも目覚めた。実験演劇やパフォーミングアーツでは、ロバート・ウィルソン、チャールズ・ラドラム、ジョン・ヴァッカロ、シンディ・シャーマン、ジョン・ボック、リチャード・フォアマンらがスミスの影響を受けている。
   

上映日

東京 パークタワーホール:5/3 18:45、5/6 16:15

 
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